”花は盛りに、月はくまなきをのみ、見るものかは。
雨にむかひて月を恋ひ、垂れこめて春の行方知らぬも、なほあはれに情深し。
咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ、見所多けれ。…”
(徒然草 第137段 兼好法師)
桜の花は満開の時だけを、月の光は1点の曇りもない時だけが美しいといえるのか。
咲く前の梢(こずえ)や散った後の花びら、雲がかかった月こそ、かえって趣があるのではないか。
徒然草のこの段は、完成されていないものに対する美への気づきを与えてくれます。
ここで言う完成されていないものとは、
「散った後の花びら」や「雲がかかった月」のこと。
ここだけ切り取ると少し物足りなく感じる人がほとんどではないかと思います。
やはり桜であれば「満開の桜」、月であれば「満月」こそ美しい、
この随筆はそんな固定観念に一石を投じてくれています。
散ったあとの花びらを見て、満開だった桜の下で花見を楽しむ人々を想像し、
雲がかかった月を見て、辺り一面を照らす満月の明かりを想像する。
このように、未完成の景色であったとしてもその痕跡や暗示により、より趣のある景色を心に映し出すことができます。
こういった感覚には、自然界の赴くままの情景を愛でる慎ましい心と対象物をつぶさに見つめる繊細さが存在しており、日本人らしい美的感覚と言えます。
しかしながら、完成されたものこそ美しいという固定観念は、未完成なものに内在する美しさに気づくことを、時に妨げていることがあるのではないでしょうか。
花咲く前の梢や雲にかくれる月などには、暗示をともなう趣ある美しさがあります。
それらに気づくことができれば、何気ない日常が少し豊かなものに感じられてくるかもしれません。