新古今和歌集 -春-

 

変わりゆく四季の中で自然の美しさを賞美し、時に自然や時間の変化に対して自分自身の心情を投影させる。そうしたものは、あらゆる芸術の世界で表現されます。日本では、古くから和歌の中で、移りゆく自然の美しさや繊細な心情が31文字という短い言葉で表現されてきました。

日本には、勅撰和歌集というものがあります。これは、天皇や上皇、法皇によって選び集めることを命じられつくられた和歌集です。全部で21集あります。よく知られるものでいくと、「古今和歌集」(905年:醍醐天皇)。最初の勅撰和歌集で、1100首が収められています。その後、時代を経て、後鳥羽院による「新古今和歌集」(1205年)には、約2000首が収められています。複数人いる編者の中には、小倉百人一首の編者でも知られる藤原定家などがいます。

その新古今和歌集では、哀傷や離別、恋、四季など様々なジャンルの歌が集められています。花開くこの季節、優美な和歌を選び取り、800年前の春の情景とそれに対する歌人の心情に思いを馳せてみたいと思います。
 
 ■‟ひとりのみ ながめて散りぬ 梅の花 知るばかりなる 人は問ひ来ず” 八条院高倉
→ただひとりじっと物思いにふけりながら家の庭の梅を見つめているうちに花は散ってしまった。この花の趣を解する人は訪れて来ないまま。
 
この歌は本歌取りの作です。本歌取りとは、有名な古歌の語句や趣向を自作に取り入れる和歌の伝統手法の1つです。
□本歌 ‟君ならで 誰にか見せむ 梅の花 色をも香をも 知る人ぞ知る” 紀友則
→あなた以外のだれに見せましょう、この梅の花。色も香りもあなただけがその情緒を解せる人であるのに。
 
■‟花にあかぬ 歎きはいつも せしかども けふの今宵の 似る時はなし” 在原業平
 →花をどれだけ眺めても飽きないという嘆きはいつもしてきたが、今日ほどその嘆きが深い時はなかった。
当時の清和天皇の女御(にょうご:后の位の1つ)であった藤原高子の花の宴での桜の花を指す。また、花は高子その人をも暗示する。
 
美しい桜の花の記憶と恋い慕う女性への記憶とを重ね合わせた歌。その熱い恋慕が‟けふの今宵の”という部分からも伝わってきます。
在原業平については、伊勢物語(9~10世紀頃)冒頭の「むかし、男ありけり~」の男が業平とされています。優れた歌人かつ、色恋の絶えない美男子として描かれています。
 

業平に限らず恋愛に没頭し、その心情を歌で表現することが日常にあった時代にあって、四季や恋歌など様々な秀歌が精選された新古今和歌集。文武に秀でたとされる後鳥羽院もそうした社会の人々の心情を理解しており、勅撰集が編まれたことがうかがえます。

毎年1月皇室で執り行われる「歌会始」。奈良時代から続く重要な宮中行事のひとつとされ、長い歴史の中で形を変えながら受け継がれ、現在は国民からの一般公募もあります。毎年お題が変わるもので、宮内庁HPで公開される昭和22年以降のお題をみてみました。「恋」の題はないようでしたが、個人的には面白いのではないかなと勝手に思ったところでした。

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風狂がかたちづくるもの

失われつつあるかつての日本の精神をヒントに、一見だれも気に留めないようなワンシーンを切り取り、既成概念にとらわれない自由なかたちで表現します。

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