西行法師

4月初め、奈良県吉野郡には国内外から人々が集まります。

目当ては、桜。吉野は古くから修験道の聖地として知られます。修験道の開祖である役行者(えんのぎょうしゃ)が、仏様を桜の木に刻んだことにより、桜が御神木として位置づけられるようになりました。その後、多くの修験道信徒によって献木が進みました。献木された桜の木はそれぞれ微妙に色味が異なるため、他の場所には無い彩り豊かな景色が生まれています。

1000年以上もの間、日本人に愛されてきた吉野の桜。その桜をこよなく愛した歌人に西行法師がいます。

1118年(元永元年)武家に生まれ、元々は兵法に通じた武士でした。兵衛尉(ひょうえのじょう)という官職を得て、鳥羽上皇の北面の武士(上皇の身辺警護にあたる武士)として仕えたのは、20歳前後の頃の話。

そして、23歳にして、突然の出家遁世(しゅっけとんせい)。

家も裕福で、官職にも就いていた西行の遁世は常識的には考えにくいものでした。

この出家の背景には諸説ありますが、当時は貴族政治に翳りが見えた時代。様々な憎悪や嫉妬により生まれた抗争が、朝廷や武士を巻き込んだ保元・平治の乱(1156年・1159年)といった大きな内戦に至った歴史もあります。
そうした終末期の貴族社会から身を引くための遁世だったともいえます。

その後、彼は日本各地を旅し歌を詠みます。新古今和歌集では最多94首が選ばれ、彼の歌ははるか昔から人々の心を掴み、松尾芭蕉などにも影響を与えています。

武士の頃から仏道を志していた西行法師。その仏教からくる無常観と自然界で養われた美意識との結びつきが、彼の歌の特徴と言えます。

 

■“惜しむとて惜しまれぬべき此の世かは 身を捨ててこそ身をも助けめ”
→捨ててしまうのは惜しいという気持ちもあるが、惜しいという世の中でもないだろう。身を捨てることこそ、自分の身を助けることになるのではないか。
出家を決めた時、鳥羽上皇へ向けられた歌でもあります。
  
■“風さそふ花の行方は知らねども惜しむ心は身にとまりけり”
→風に誘われて散っていく花の行方は知らないが、それを惜しむ気持ちはずっとこの身にとどまっている。
  
■“世の中のうきをも知らですむ月のかげはわが身の心地こそすれ”
→世間の辛いことも知らずに空に澄みわたっている月は、我が身がそうありたいと思う境遇と同じような気持ちがする。
 

花や月をこよなく愛したとされる西行法師。

彼の歌は、花や月そのものの美しさを詠ったというよりも、花や月の成り行きを目にした時の心の動きが巧みに描かれています。それらは、花を待つ心や散る花を惜しむ心などです。

花や月に惹かれる心の本源を探求するために、言葉が選び取られ歌が生まれた。その心の自覚は実に深みがあり、容易に理解できるものとは言えません。今の時代においても、月や花を見、その時の自分の心を観ることはできます。そうした試みが、西行法師の歌への理解に少しつながるかもしれません。

ブログに戻る

風狂がかたちづくるもの

失われつつあるかつての日本の精神をヒントに、一見だれも気に留めないようなワンシーンを切り取り、既成概念にとらわれない自由なかたちで表現します。

商品ページ