4月初め、奈良県吉野郡には国内外から人々が集まります。
目当ては、桜。吉野は古くから修験道の聖地として知られます。修験道の開祖である役行者(えんのぎょうしゃ)が、仏様を桜の木に刻んだことにより、桜が御神木として位置づけられるようになりました。その後、多くの修験道信徒によって献木が進みました。献木された桜の木はそれぞれ微妙に色味が異なるため、他の場所には無い彩り豊かな景色が生まれています。
1000年以上もの間、日本人に愛されてきた吉野の桜。その桜をこよなく愛した歌人に西行法師がいます。
1118年(元永元年)武家に生まれ、元々は兵法に通じた武士でした。兵衛尉(ひょうえのじょう)という官職を得て、鳥羽上皇の北面の武士(上皇の身辺警護にあたる武士)として仕えたのは、20歳前後の頃の話。
そして、23歳にして、突然の出家遁世(しゅっけとんせい)。
家も裕福で、官職にも就いていた西行の遁世は常識的には考えにくいものでした。
その後、彼は日本各地を旅し歌を詠みます。新古今和歌集では最多94首が選ばれ、彼の歌ははるか昔から人々の心を掴み、松尾芭蕉などにも影響を与えています。
武士の頃から仏道を志していた西行法師。その仏教からくる無常観と自然界で養われた美意識との結びつきが、彼の歌の特徴と言えます。
花や月をこよなく愛したとされる西行法師。
彼の歌は、花や月そのものの美しさを詠ったというよりも、花や月の成り行きを目にした時の心の動きが巧みに描かれています。それらは、花を待つ心や散る花を惜しむ心などです。
花や月に惹かれる心の本源を探求するために、言葉が選び取られ歌が生まれた。その心の自覚は実に深みがあり、容易に理解できるものとは言えません。今の時代においても、月や花を見、その時の自分の心を観ることはできます。そうした試みが、西行法師の歌への理解に少しつながるかもしれません。