瀬戸焼のルーツ

12世紀、鎌倉時代初期に始まる瀬戸焼。愛知県名古屋市一帯に窯元が散在します。そのルーツは平安時代の灰釉陶器と呼ばれるやきもので、当時は猿投窯(さなげよう)という名の産地で知られました。この猿投窯、元々は須恵器の代表的な産地でした。須恵器は瀬戸焼をはじめとする日本の陶磁器のルーツであります。

須恵器以前は土器が長い間主流を占めました。
日本のやきものの歴史は約1万2千~1万6千年前の縄文土器が始まりです。そして1万年以上もの間、土器だけの時代が続きます。縄文土器や弥生土器らは、野焼きのような焚き火での焼成で焼成温度も700度~900度ほどと低温だったため、焼き締まっておらず壊れやすくありました。
 
時を経て5世紀前半に須恵器(すえき)が日本に伝わります。須恵器は1200度の高温で焼成されるため頑強な仕上がりで、こうした特徴が瀬戸焼に関係していきます。
 
須恵器は朝鮮半島からの渡来人によりもたらされた技術で生産されました。
彼らの技術の中でも築窯は焼き物の完成度に影響しました。山の傾斜に溝を掘って天井を作った穴窯により、高温焼成を上手くコントロールすることが可能となりました。
また、須恵器は還元炎という方法で焼かれました。あえて酸素が不足した状態で焼成し、土や釉薬に含まれる酸素が窯内の空気に奪われることで、焼き物の色味が青味あるいは黒味がかかった灰色に変化します。これにより焼き物の景色を味わい楽しむことができるようになりました。
くわえて焼成時に燃料である薪の灰が器に降りかかって溶けた自然釉が編み出されました。灰が溶けるには1200度くらいの高温まで窯内の温度が上昇する必要があります。この自然釉が瀬戸焼の施釉陶器としてのルーツとなりました。
 
平安時代の猿投窯(愛知県)ではその須恵器の手法を基に灰釉陶器の生産が行われました。燃料である薪の灰が溶けることで生まれる自然釉が綺麗に器にかかるよう、窯の中で位置を調整を行うなどもしていました。

高温で焼かれた灰釉陶器は堅牢かつ美しく実用的なものであり、その点が瀬戸焼に限らず現代の陶磁器のルーツといえます。 

この灰釉陶器は中世に入って衰退していったのですが、瀬戸で復活することになります。それが瀬戸焼の始まりで鎌倉時代初期(12世紀後半)の頃でした。

瀬戸焼と同じように中世から現代まで続く歴史ある窯元を総称して日本六古窯と呼びますが、当時釉薬を使用したやきものを生産していたのは瀬戸だけでした。
  

中国の陶磁(青磁や白磁)を手本に発展してきた瀬戸ですが、良質な粘土とガラスの原料となる珪砂(けいさ)などが採集可能な豊かな土壌も瀬戸焼の発展に大きく寄与しています。

元々渡来人の技法を取り入れたことに端を発する瀬戸物。現代では人工的に陶器の性質を高めることのできるファインセラミックなども導入され、そうした新しい技術や文化を柔軟に取り入れながらも、その土地の風土に合った発展の遂げ方を続けてきたことが日本を代表する窯元である所以と言えそうです。

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風狂 花瓶 / 巌iwao
鉄釉による発色で施釉された瀬戸焼の花瓶
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