古今東西の人々にとって身近な天体である月。
月については、小学生の時、理科の授業で少し教わったような気がする…くらいの記憶しかありません。
その月は、古来より私たち日本人の暮らしと深いかかわりがあります。
中でも暦(こよみ)は暮らしを営むうえで不可欠なものであり続けました。
時間の経過の規則性を導き、未来を予測するために生まれた「暦」。
その規則的な変化として最初に着目されたのが月の満ち欠けでした。
月の観測から生まれたのが、俗にいう旧暦(≒太陰太陽暦:太陽に対して、月は太陰と呼ばれる)です。
月の満ち欠けが12回ほど繰り返されると約1年になるというのは、世界各地で早い時期に発見されていたとされます。
月の満ち欠けの平均周期(ざっくりですが月の形は徐々に変化していて、新月→三日月→半月→満月→半月→三日月→新月)は29.53日くらい。これを12倍すると、約354日。
この暦は太陰暦と呼ばれましたが、太陰暦を使用していると徐々に暦と季節がずれていくことに人々は気づきます。なぜなら、私たちに馴染みのある1年=365日とは11日の差があるからです。
そうして、人々は暦と季節を正確に定めたいと思い始めます。
そうして、人々は暦と季節を正確に定めたいと思い始めます。
人々がそもそも1年の長さを正確に測りたいと思ったのは、変わりゆく気候に対応しながら農耕や狩猟を効率よく行い、生活を営むためでした。その1年の長さは「季節が一巡する長さ」のこと。そこで、より正確に1年の長さを測るために、中国から伝わった二十四節気が活用されます。
二十四節気とは、暦月と季節とを関連付けるためのもので、太陽の動き(実際には地球が太陽の周りを360度公転している)を15度ずつ24等分して、その各点に名前を付けたものです(立春や秋分、冬至など)。
季節の変化は主に太陽の動きによって起きます。かつての人々は太陽の高度を地道に観測し、夏至(1年で最も昼が長い)や冬至(1年で最も昼が短い)を発見します。たとえば最初に観測した夏至から次回の夏至までの間隔が大体365日くらいだったので、それが「季節が一巡する長さ」とされました。そして、前述した通り、太陽の動きを15度ずつ24等分する形で、春分・秋分・立春・立夏などさらに季節を細分化しました。
その上で、月の満ち欠けの周期から導かれる354日と365日の差である11日を埋めるために、約3年に1度、1ヵ月を余分に入れる閏月(うるうづき)と呼ぶ月を入れることで、そのズレを解消しました。
太陽の動きを基にした二十四節気と月の動きを基にした太陰暦を結び付けた暦なので、「太陰太陽暦」と呼ばれます。
日本では、明治5年(1872年)まで使用されていた太陰太陽暦。残念ながら現在、日本も含め、公式に使用している国はありません。
日本では、明治6年1月1日からは新暦(≒ローマ・グレゴリオ暦)が導入されました。その背景には、文明開化があり、その後日本人の生活様式は大きく西洋化に傾いていきます。
太陰太陽暦の作成にあたっては天文学的かつ数学的な観測が求められ、非常に難解です。しかし同時に、月や太陽、季節の変化を仔細に観察していた日本人の暮らしを伺い知ることができます。
そして、農耕生活が重要な位置を占めていた日本人にとって、時間の経過や季節の規則性を知ることは非常に大切なことだったと想像されます。
地球から月は、最も遠い距離で約40万kmも離れています。
それでも月ははるか昔から夜の世界を明るく、そして美しく照らしてくれています。
三島由紀夫の小説「金閣寺」に境内における風と月の姿を描いた美しい一節があります。
“風はふと静まり、又強まる。森は敏感に聞き耳を立て、静まったりさわいだりする。池の月かげが、そのたびに暗み明るみして、時には散光をひきつらせて、池の面を迅速に一ト掃きする。”
今夜の月の出は0:53の予定です。