方丈記(前)

 

今日私たちは物質的な豊かさをこれまでになく享受できる世の中を生きています。一方で、先の見えない問題を抱えているのも確かです。コロナウイルス感染症が収束したかと思えば、ウクライナや中東での戦争や内乱は拡大し続け、地球温暖化の影響も伴い自然災害は世界各地で相次ぎ目に見える形での被害が年々増加しています。まだ現実として危機感を感じにくい方々も沢山いるでしょうが、今はまだ享受できている平和な生活はいつ失われるか分かりません。

800年以上前に、今以上に不安定で困難な時代を生き、世の無常に気づいたのちに独自の境地にたどり着いた文人がいます。それは、鴨長明です。彼が書いた「方丈記」という作品は、今の時代を生きる私たちが読むべきものとして薦められます。平安時代末、一時代を築いた貴族が衰退し、武士が台頭し始めた頃に、方丈記は書かれました。文庫本サイズで40ページ弱に収まる程度のボリュームですが、その文章の美しさや描写の的確さから高い評価を受け、枕草子や徒然草と並んで日本の三大随筆とされます。

この方丈記、作者の鴨長明が経験してきたことを基に書かれています。では、鴨長明とは、そもそもどういった人物なのでしょうか。
はじめから文人の道を進んでいたわけではありません。ルーツをたどると、1155年(久寿2年)、京都下鴨神社の禰宜(ねぎ)の息子として生まれました。禰宜とは、神社に奉仕する職のひとつです。順調にいけば将来は今でも名高い下鴨神社での安定した地位につけるはずでした。しかし、長明が18歳の時に禰宜である父長継が他界していまいます。それにより、後ろ盾を失った長明は禰宜の後継者争いに破れてしまいます。その上に、京都での大火や大地震、飢饉など相次ぐ災難に20代の若さで見舞われることになります。この惨状が方丈記に描かれます。
しかしながら、30代~40代にかけて、和歌や文学、音楽において才能を開花させ、当時の後鳥羽上皇に高く評価されます。47歳のとき、勅撰和歌集(天皇や上皇の命によって編集される和歌集)の選定を行う和歌所での仕事を任され、50歳のときには、上皇により、下鴨神社とも縁のある糺の社(ただすのやしろ)の禰宜に推挙されたものの、当時下鴨神社の禰宜だった鴨祐兼に反対を受け、長年の望みは叶いませんでした。
そうした大きな挫折を伴う自身の境遇と京都での数々の天災等が重なったことで、長明は、この世の無常と人生の儚さを強く感じ、山中で隠遁生活(世俗を離れて生活をすること)に入ることを決めます。その隠遁生活は、最終的にわずか3m四方の庵(いおり:風流人など浮世離れした者が用いる質素な佇まいの小屋)で、和歌や音楽、仏教など自身のやりたいことに勤しむ暮らしへと至ります。
方丈記はそのような庵において書かれました。1212年(建暦2年)、58歳のときでした。
 
方丈記(後)につづきます。後半では、方丈記の豊かな表現技法に触れつつ、いかにして長明が独自の境地に至ったのかを探ります。
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風狂がかたちづくるもの

失われつつあるかつての日本の精神をヒントに、一見だれも気に留めないようなワンシーンを切り取り、既成概念にとらわれない自由なかたちで表現します。

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